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佐渡法難

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2013-10-09

明日は日蓮聖人が新潟県の佐渡島へ流罪になった日です。

この日を偲んで行われる法要を「佐渡法難会」(さどほうなんえ)と言います。

文永8年(1271年)10月10日、龍ノ口での処刑で奇跡的に一命を取り留めた後、日蓮聖人は佐渡へと送られます。

佐渡といえば、古来この地に流された流人のほとんどが病死していました。承久の乱の順徳天皇等、数え上げれば切りがありません。当時、佐渡へ流されるということ自体、死罪にも匹敵する罪であったといえます。


~~塚原の三昧堂~~

厳冬の佐渡で日蓮聖人にあてがわれたのは死人を捨てる塚原の三昧堂でしたが、ここは

「上は板間あわず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし」

と、後に日蓮聖人が「種々御振舞御書」に書き記すとおりのありさまで、想像を絶する凍えや飢えと戦いながらの厳しいものでした。

厳寒の孤島で、しかも当時50歳の大聖人のこの峻烈な生活は2年数か月にも渡りました。



~~塚原問答~~

日蓮聖人は若い頃から一切経(全ての経典)を熱心に研究し、それぞれの思想を比較検討する中から、法華経が最高最上の教えであり私たちに最もふさわしい経典であることを確信します。中国の天台大師をはじめ多くの僧や仏典研究者の成果を踏まえ、末法すなわち仏教がすたれ世が乱れる時代においては、この法華経でなければ人々を救済することはできないとの結論に達するのでした。

ところが当時の鎌倉時代においては、流行の念仏宗はもちろんのこと、どの宗派でも人々の生命を左右する肝心の政治までもが道を誤ろうとしている。このままでは貧窮する民衆の救われる道はないと、反発を恐れず法華経の流布に孤軍奮闘することになります。その過程の中で、他の経典や宗派の問題点を指弾することになるのは当然の成り行きで、いわば、どの教えに従えば最も安らぎある社会を築けるかを主張するが故の批判だったともいえるのです。

文永9年(1272年)1月16日、17日、日蓮聖人の他宗批判に我慢できなくなった佐渡だけでなく北陸・信越等から諸宗の僧など数百人が集まり、大聖人に法論を挑んできましたが、大聖人は各宗の邪義をことごとく論破されました。その他、この地には大聖人の命を狙う者もいたようです。

DSC-867.jpg
(佐渡歴史伝説館内展示 『日蓮聖人 塚原問答』)
↑リアルに見えますが、人形です。(笑)



~~開目抄~~


日蓮聖人の相次ぐ法難、迫害の連続であったこれまでの人生は、「法華経」の持経者は多くの災難に見舞われるという、お釈迦さまが「法華経」のなかでされた予言を実証するものにほかなりませんでした。

日蓮聖人はこのことにより自らこそ、お釈迦さまより「法華経」の弘通を直接委ねられた本化上行菩薩(ほんげじょうぎょうぼさつ)であるという自覚を強めました。

この時より、日蓮聖人は「開目抄」の執筆を始めます。

「開目抄」の中で日蓮聖人は

・我、日本の柱とならん。我、日本の眼目とならん。我、日本の大船とならん。

という「三大誓願」を記されて、

・詮ずるところは天も捨てたまえ、諸難にも遭え、身命を期せん

と、たとえ諸天のご加護がなくとも末法の日本を救うため「法華経」の弘通に一命をささげる決意をされています



~~予見の的中~~

赦免されるのは、日蓮聖人の予見した蒙古の襲来がわかったからです。


~~まとめ~~

日蓮聖人は、幾多の困難に見舞われながらも、強い信念のもと、お釈迦さまの教えを日本の地でひろめた人物です。

人々の苦しみを取り除き、社会全体が幸せになるように願った日蓮聖人は、来世ではなく"今を生きる"ことの大切さを説き、法華経への信仰にその生涯を捧げました。

日蓮聖人が説く、お釈迦さまの功徳が集約された「お題目」の世界は、今もなお多くの人々の心の拠り所となっています。

そして10月10日。

この日は、佐渡流罪の厳しい環境に耐えながら、「法華経の行者」というご自身の信仰を確立していかれた聖人のご遺徳を讚える日です。

明日は、皆さまも佐渡法難を思い、お題目をお唱えしましょう。


南無妙法蓮華経


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